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日本ビオトープ協会誌「ビオトープ」 No.7


所感 「緑との関係について思うこと」  直木 哲

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 地方都市の大学で果樹園芸を学び、希望と縁があって造園会社に入社したのはもう30年近く前である。入社してまず、わからなかったことは造園とは何なのか、緑とは何なのかの理解であった。
 造園がサイエンスとノンサイエンスの両面を持つことは驚きであった。土木はほぼ100%近く科学的な構造計算等の数的根拠に基づいている。造園は植物に対する生理、病理、土壌学や軽土木的な構造に基づくサイエンスのエリアとともにアメニティーや芸術的デザインに代表されるノンサイエンスのエリアが極めて重要なウエイトを占めている。快適性は人間としてどう感ずるかの感覚的問題であり、それを扱う造園は、「人間とは何か」をも求めなければトータルの理解ができない範疇に属するものとの考えに至った。
 造園が取扱う最も重要な材料は植物である。従って植物や緑の機能、効果効用については多くのことが言われている。たとえばCO2を吸収しO2を出すことや、森や林の防音、防災、暴風機能等があげられる。しかしながらそんな機能や効果を理解しても、最も根本的な緑に対する答えにはなっていない。なぜ人々が緑や花を求めるのか、なぜ森や自然にあこがれ、そこに行くと安らぎを覚えるのか、これは科学的理解の範疇ではなく、もっと根本的な、精神の根源的なことに由来していると思わざるを得ない。それが何なのか、どのように考えるのが感覚、感情、情緒を含む人間の心の問題としてぴったりくる答えなのか、どうしても自分なりに解けない長い間の課題であった。
 10年ほど前であろうか、ある本に出会い、これだという私なりの答えを見出した。その本は京都大学霊長類研究所教授河合雅雄著による「森林がサルを生んだ」である。その内容によると、人類発生以前のある時期アフリカの熱帯多雨林で霊長類が住んでいた。彼らは樹上生活者であった。樹上は食料が非常に豊富でありながら、ほとんど天敵がいない世界であった。余裕がある食料と補食圧を受けないと言うことは、食うか食われるかの食物連鎖という生態学的拘束を受けない世界を持つことを意味する。樹上は楽園であり、花を愛でるように食べる余裕が文化の原点を生み出した。氷河期が和らぎ森林が北上する時ある霊長類は樹上のまま森の移動に順じて北上した。しかしある種はその場に残り、地上に降り立ち直立歩行、道具の使用と人類の祖先になっていった、という仮説である。
 この説からすれば、はるか遠い昔の地球において、海から生まれた生命の一つが陸に上がり、長い進化の過程を経て森で適応順応した。森は人類の祖先に母として食べ物を与え、文化を生み出した原点なのである。人間の遺伝子に組み込まれた精神的郷愁により本能的に我々の心が自然や緑を求め、また緑も母である森の象徴としてその希求に答えて安らぎを与えているのではないのであろうか。そう考えると緑と人の関係を感覚的に理解でき、自己満足に過ぎないが納得している。
 しかしその結果、森の伐採は母の生命を自ら絶つという恐ろしい事実に気づくことになる。

(日本ビオトープ協会技術委員長)




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