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日本ビオトープ協会誌「ビオトープ」 No.7


研究論文  「わが国に於ける自然環境復元の歩みにみる神社林の造成」  秋山恵二朗・杉 山 恵 一

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 広義の自然保護運動の一分流として、自然環境復元の動向が活発化し始めたのは、たかだかこの数年のことにすぎない。この運動が従来の自然保護運動と一線を劃すのは、後者が主として学術上貴重な動植物の生存環境を可能な限り聖域的に保存しようとするのに対して、まずその対象が必ずしもそのような特殊生物を含まない身近な環境であること、次に、その環境を人為的な手段を用いても復旧しようという意向をもつ点、さらには、その地域を聖域化するのではなく、人間との共存の状態での利用をも考慮する点などである。復旧の意向を持つ理由は、それらの地域の大半が都市内外に存在することから、すでに多大な破壊を蒙り、自然環境として本来の姿をとどめていないことによる。

 狭義の、あるいはオーソドックスな形での自然保護運動の嚆矢が、古くは菌類学者の南方熊楠による社寺林の保存運動であり、現在に連なる組織的な運動の源とも言うべき昭和20年代の尾瀬湿原の保存運動も多くの専門学者によって主導されたことでも分かるように、従来の自然保護運動の意義づけは、主として生物学にかかわる専門家によってなされ、運動の担い手の多くも専門的知識の所有者であることが一般的であった。

 それに対して、近年の自然環境復元運動は、必ずしも専門家とはいえない一般市民を担い手として、明確な学術的意義づけをもたない形で発生したものであることも狭義の自然保護運動との区別点として記憶されるべきであろう。

 この運動の初期的段階を主導した人々の背景、意向はきわめて雑多であり、いちがいに総括することは不可能である。必ずしも専門学者を含まないわけではないが、従来の自然保護運動の主導者の大部分が生物系の人々であったのに対して、工学系、農学系あるいは造園や都市計画などに関する専門家を含むことが大きな特徴となっている。運動に参加した一般市民と呼べる人々の顔ぶれはさらに雑多であるが、ごく大掴みな傾向としてはそれ以前の環境保全の運動に何等かのかかわりをもつ人々であると言える。

 各地域には昭和四十年代の高度成長経済期の自然破壊、公害などのアンチテーゼとして多くの自然保護団体、公害反対団体等が市民の手によって結成され、今日に至るまでひきつづき様々な活動に従事してきた。それらのあるものが新たな運動方針として身近な自然環境の保全と復元を選ぶことになったと考えられる。自然環境復元の運動を主導する人々と、この間の経験によって、環境間題に関しては相当の知識をもつ人々であったと言える。


 筆者は一市民の立場で昭和45年から、静岡県自然保護協会に参加し、南アルプス、富士山、天城山系などの自然保護運動に従事してきた。しかし、このような第一級の自然地域に関する保護の重要性がしだいに常識化したことによって、新たな間題が少なくなったこと、一方、その間に身近な自然があまりにも大規模に破壊されてきたことから、従来型の自然保護運動のみを進めることに疑間を感じ、あらためて身近な自然環境の保全・復元に関心を持つに至ったものである。

 私の属する静岡県自然保護協会は、現在身近な自然の保全に大きな関心を払いつつある。このような経緯をたどった、あるいはたどりつつある団体は比較的数多いものと考えられる。それらの団体では、生物への関心も深く、専門家の参加もあるため自然環境の復元は、生態系の復活と結びつけて考えられることが多い。しかし、自然環境の復元を意図しつつも必ずしも生態系と関連づけて考えない運動も多く見られる。つまり、人間側にとって必要とされる自然の復元を意図するもので、それらは主として風 景(景観という言葉はランドケスープの訳語として、生態学的要素を含む)や遊び、散策の場としての自然を復元させようとするものである。

 この二つの大きな流れを中心として、様々な方向性をもつ運動が存在するものと考えてよい。しかし、本文では生態系の復元を第一の意図とするものを狭義の自然環境復元の行為とみなし、結果として生態系の復元も行われるにすぎないものは広義の自然環境復元として区別したい。その理由は、地球環境の危機(実際には人類滅亡の危機)を回避するためには地球全域に於ける生態系の復元が必要不可欠であると考えられるからである。


 先に述べた狭義の自然環境の復元が開始されたのは、わが国で生態学が一般化したたかだか十数年、厳密に言えば数年以前のことにすぎない。しかしながら、人間が自然を利用してきた永い歴史の期間で、広義の復元は様々な形で行われてきたであろう。植林などはその最も一般的な形である。ただし、それは自然林の復元を意図するものではなかった。

 私の知る限りでは、相当意図的に自然林の復元が行われた最初の例は東京都に於ける明治神宮の森の造出である。当時その地域には自然林がほとんど存在しなかったことから、当概地域に於いては復旧というのではなくむしろ創造、新たに創出したものと言った方がよいであろう。しかし、植えられた樹木がすべて存来種であったこと、その後百年近い年月遷移を経て、結果的にはいわゆる借在植生を現実化したと考えられることから、相当過去の時代にさかのぼっての復元が行われたと考えることができる。

 最近出版された「大都会に造られた森  -明治神宮の森に学ぶ- 」(松井光瑶他、1992)は明治神宮の森の計画、造成、その後の経緯などを総括的に記述したものである。次に引用によってこの事業の概略を示す。


 “明治45年7月30日、明治天皇が崩御されると、天皇を追慕する気運が高まり、奉祀社建設の請願運動が起こった。請願は次第に数を増し全国に広がり、崩御から半年ほどで、貴衆両議員が政府に奉祀の協賛を求める建議を行うまでに至った。”

 その建設候補地として各地から請願や陳情が行われたが、政府によって組織された調査会によって、最終的には御料地のひとつである豊多摩郡代々幡村代々木に決定された。この敷地は江戸時代、彦根藩主の別邸であったが、“井伊家の記録図によると、周囲は約3,100メートル、総面積は約60へクタールで、敷地の周りは松並木だった。また、中央にはモミ、カシ、雑木などの生えた小高い丘と、松林の丘がある。西部と北部はほとんど畑地で、東部と南部の一帯が庭園”、“東方は長さ約330メートルの馬場で、東南は芝生が連なり、その間に『代々木』の地名の由来となったというモミの大木があった”。このモミの、“南西には約8,000平方メートルの大池があった、池の北端は水囲になっている。水田の奥には、大池の水源の『清正井』というわき水があって、池からの流れは、隣の穏田村の水田に利用されていた。水田の東の雑木材は現在でもほぽそのままの形で残り、西南方は向御殿という建物と、芝生に覆れた大瓜山という丘になっている”。御料地時代には、この庭園部分が改修され、現在の明治神宮御苑として残されている。

 大正四年、明治神宮創建のため「明治神宮造営局」が作られたが、その中の林苑、造園のスタツフとし て、東京帝国大学の川瀬善太郎(林学)、本多静六(林学)、原熈(農学)、奈良女子高等女子師範の折下吉 延(農学)、また、造園では本郷高徳などの専門学者達が参画した。

 造林の基本計画策として、当時の総理大臣大隈重信から、杉林とするようにとの強力な意見が出されたが、これらのスタッフは苦心の末それを退け“昔この地方に存在した森林の状態を再現する”ことを計画の基本に据えることに成功した。まさに、わが国に於る自然環境復元の嚆矢としての事業であることが分かる。杉・桧などの森林作りにのみ狂奔した、その後のわが国の林業を考えると、計画に参画した林学スタッフのこの決断は不思議とさえ思えるのである。明治時代の学者の識見の高さにはあらためて敬意を表せざるを得ない。

 松井ら(1992)によると“基準的な林苑の植栽計画は、50年後、100年後、150年後の変化の道程を念 頭に置いた三段階の予想図を作った。これは『林苑ノ創設ヨリ最後ノ林相二至ルマデノ遷移ノ順序』と して示されている。

 第一段階の森は、一般的仮設のもので在来木や献木の中でも大きいものを利用し、主木の上冠木は、主としてアカマツ、クロマツにする。その間にやや低いヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹を交え、さらにその間に、なお低く将来の主林木になるカシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹を配し、下木として灌木類を植栽する。
 第二段階の森は、最上冠を占めていたマツ類がヒノキ、サワラなどに圧倒され次第に枯れ、数十年後 にはマツ類に代わって林冠支配木となる。マツは点在する状態に至る。  第三段階の森は、カシ、シイ、クスノキ類の常緑広葉樹が支配木となる。その間に、スギ、ヒノキ、 サワラ、モミなど、 まれにはクロマツ、ケヤキ、ムクノキ、イチョウなどの大木を混生した状態になり、 100年前後で天然林相になる長期的な展望だった。”
 以上の計画および将来の見通しが発表されたのが大正4年(1915)であることを考えると、その先見性は驚喚に値する。ちなみに明治神宮の竣工は大正9年(1920)である。ここでは、すでに遷移の概念が、まさに「遷移」の語を用いて正しく把握され、しかも具体的な樹種の消長をもって示されているのである。実は遷移の概念が、普遍的概念として学会に定着するのは、この計画の示されるより二十数年の後、1939年(昭和14年)のシェルフォード及びクレメンツによる論文発表以後のことになるからである。

 その後の経過、管理、現在の状態等については前記文献(松井ら、1992)に詳しいが、結果について端的に示した箇所を引用するならば“当初の植栽計画の中にあった将来の林相の予想図と比べると、現在の林相の状況は、三段階あるうちのすでに三段階の状態にまでなりつつある。当初の予想が的確であったことと、樹木の生育が良好で、予測した以上のテンポで進行してきていることが立証される。造営計画は大成功だったのだ”ということになる。


 この明治神宮の森の創造(代償的復元)が、社寺林の意識的、計画的な創造の嚆矢であり、最大規模のものであると考えられる。しかしながら、先駆的な事例が全く存在しないわけではない。明治維新以後の国家神道の確立期に、それまで混在していた仏教的要素を排除するとともに、神域の景観を改良する作業一環として、森林の造成、拡大などが多くの神社でなされたと想像されるからである。伊勢神宮などもその一例である。しかしながら、明治神宮の場合のように、一流の学者の見識によって計画された例は他に存在しないのではないだろうか。

 明治神宮の直営以後の社寺林の創造の内容について詳しくは分からない。しかし、1945年の太平洋戦争終結まで各地で継続的に行われたようである。とりわけ、この戦争中に戦死者の霊を祀るための「招魂社」が「護国神社」の名称のもとに盛んに造営された。著者の住む静岡県下でも、静岡市にその一つが造営されたのであるが、現在きわめて見事な自然林を形成している。杉や桧などの純林とせず雑多な在来樹木による植林を行った結果であるが、このような事にも明らかに明治神宮の造営方針の影響が認められる。

 多くの県下で行われたこの護国神社の森創出の一例として「静岡県護国神社史」に記述された「境内林造成」(資料1参照)を紹介したい。当該文献(1991)は本文執筆に当たり、上記神社史の執筆・編集事務局長二橋正彦氏より恵与されたものである。ここに厚く感謝したい。  なお、護国神社は内務大臣により、道府県あたり一社を基準に指定されたものであるが、実際には終戦時までに51社に達した。その一覧表が全国護国神社一覧に揚載されている。それら、すべての神社にアンケート調査を行い、神社林の面積、その創立当初の地目、現在の状況等につき確認した。その内容は表Iに示した。森林創造に関して貴重な資料とされるであろう。現在の種構成については引きつづき調査中である。



引用文献

1.静岡県護国神社.1991、静岡県護国神社史.
2.松井光堵・内田方彬.北村昌美、1992、大都会に造られた森 明治神宮の森に学ぶ. 3.全国護国神社会.1992、全国護国神社一覧.





全国護国神社林一覧表


護国神社名

所在地

境内の面積(m2)

創建当初の地目

創建年

現在の状況
1.北海道護国神社 旭川市花咲町一丁目 20,000 原野 昭和14年 森林
2.函館護国神社 函館市青柳町9−23 19,800 山林 昭和14年 森林
3.札幌護国神社 札幌市中央区南十五条西五丁目1−1 20,000 宅地 昭和14年 森林
4.青森県護国神社  弘前市大字下白銀町1 7,920 城址 昭和14年 公園他
5.岩手護国神社 盛岡市八幡町13番2号 10,000 山林 昭和14年 森林
6.秋田県護国神社 秋田市寺内字大畑68 15,000 雑木林 昭和14年 森林
7.山形県護国神社 山形市薬師町二丁目8番75号 14,850 河川敷 昭和14年 公園他
8.宮城県護国神社 仙台市育葉城址天守台 33,000 造成地 昭和14年 森林
9.福島県護国神社 福島市駒山1番地 9,900 山林 昭和14年 森林
10.千葉県護国神社 千葉市弁天三丁目16番1号 5,289 墓地 昭和18年 公園他
11.埼玉県護国神社 大宮市高鼻町三丁目154 2,310 雑木林 昭和14年 公園他
12.栃本県護国神社 宇都宮市陽西町1番37号 39,600 畑地 昭和14年 森林
13.茨城県護国神社 水戸市見川一丁目2番地1 2,310 山林 昭和16年 公園他
14.群馬県護国神社 高崎市乗附町2000 66,000 桑畑 昭和16年 森林
15.山梨県護国神社 甲府市岩窪町608 15,840 山林 昭和19年 森林
16.新潟県護国神社 新潟市西船見町浜浦5932 52,800 砂防林 昭和20年 松林
17.石川護国神社 金沢市石引四丁目18番1号 19,800 練兵場 昭和14年 森林
18.富山県護国神社 富山市磯部町一丁目1番3号 14,520 宅地 昭和14年 森林
19.福井県護国神社 福井市大富二丁目13番8号 23,100 平野 昭和16年 森林
20.静岡県護国神社 静岡市柚木366 99,000 茶畑・湿地 昭和14年 森林
21.長野県護国神社 松本市美須96番1号 33,000 桑畑 昭和14年 森林
22.愛知県護国神社 名古屋市中区三の丸一丁目7番3号 12,870 城郭内 昭和14年 森林
23.濃飛護国神社 大垣市郭町二丁目55 4,290 宅地 昭和14年 公園他
24.岐阜護国神社 岐阜市御手洗393 13,200 河川敷 昭和16年 公園他
25.三重県護国神社 津市広明町387 9,900 サラ地 昭和14年 森林
26.京都霊山護国神社 京都市東山区清閑寺霊山町1 16,500 山林 昭和14年 森林
27.滋賀県護国神社 彦根市尾末町1番59号 16,500 サラ地 昭和14 森林
28.大阪護国神社 大阪市住之江区南加賀町1−1−77号 23,100 アシ原 昭和15年 森林
29.奈良県護国神社 奈良市吉市町1984 66,000 茶畑 昭和17年 森林
30.和歌山県護国神社 和歌山市一番町3 3,085 城址 昭和14年 森林
31.兵庫県神戸護国神社 神戸市灘区篠原北町四丁目511 6,600 草原 昭和16年 公園他
32.兵庫県姫路護国神社 姫路市本町118 7,590 練兵場 昭和14年 森林
33.岡山県護国神社 岡山市奥市3番21号 25,914 山林 昭和14年 森林
34.広島護国神社 広島市中区基町21番2号 4,950 城址 昭和14年 公園他
35.備後護国神社 福山市丸之内一丁目9番2号 13,200 山林 昭和14年 森林
36.鳥取県護国神社 鳥取市浜坂1318−53 8,745 山林 昭和14年 森林
37.松江護国神社 松江市殿町1番地15 7,685 屋敷跡 昭和14年 公園他
38.浜田護国神社 浜田市殿町123−10 森林 12,540 造成地 昭和14年 森林
39.山口県護国神社 山口市宮野下1932 8,910 山林 昭和16年 森林
40.香川県護国神社 善通寺市文京町4−5−5 33,000 練兵場 昭和16年 森林
41.徳島県護国神社 徳島市徳島町城内1 29,205 山林 昭和14年 森林
42.愛媛県護国神社 松江市御幸一丁目476 33,000 造成地 昭和14年 森林
43.高知県護国神社 高知市吸江213 66,000 山林 昭和14年 森林
44.福岡県護国神社 福岡市中央区六本町一丁目1番1号 66,000 練兵場 昭和18年 森林
45.佐賀県護国神社 佐賀市川原町8−15 13,200 原野 昭和14年 公園他
46.長崎県護国神社 長崎市城浜町41番67号 4,590 山林 昭和17年 森林
47.大分県護国神社 大分市大字牧松栄山1371 165,000 山林 昭和14年 森林
48.熊本県護国神社 熊本市宮内3番1号 9,075 山林 昭和14年 森林
49.宮崎県護国神社 宮崎市神宮二丁目4番3号 11,774 宅地 昭和18年 森林
50.鹿児島県護国神社 鹿児島市草牟田2−60−7 39,600 水田 昭和14年 森林
51.沖縄県護国神社 那覇市奥式山町44 7,959 山林 昭和15年  





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